teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助 youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


ノーベル物理学賞とわが家の霧箱

 投稿者:玉川  投稿日:2015年10月 8日(木)22時21分22秒
  日本人によるニュートリノの質量の発見がノーベル賞を受賞した。
ニュートリノとは、核分裂や中性子の崩壊などで発生する素粒子で、ほとんど光に近い速さで運動し、電荷を持たないため、太陽をも簡単に通り抜けることができる。
1998年当時の新聞には、この世紀の大発見が紙面の片すみに小さく掲載されていた。
ノーベル賞級の大発見に対する世間の関心が、あまりにも低いことが印象的だった。
むしろ、パキスタンの核実験の方が大きく報道されていた。
日本人によるノーベル賞受賞の日を記念し、趣味で買った霧箱をセットアップして、宇宙から飛来する素粒子を家族や知人らに見せた。
霧箱とは、素粒子の軌跡を筋状の霧の形で見せてくれる装置である。
宇宙空間を飛び回る素粒子は一次宇宙線と呼ばれる。
一次宇宙線が地球の大気に衝突すると、二次宇宙線が発生して地上に降り注ぐ。
高エネルギーの素粒子は家の屋根や壁を通り抜ける。
鉛の板で囲まれたレントゲン室に霧箱を置いたが、数は変わらなかった。
スーパーカミオカンデが地中深くに作られた理由がよくわかる。

(P.S.)しばらく休んでいる間に、朝日新聞が慰安婦問題のタネ明かしをしてしまった。
 
 

LS13卒40年記念東京懇親会

 投稿者:MM  投稿日:2015年 1月30日(金)23時52分36秒
  LS13卒40年記念東京懇親会を2/10(火)東京にて18:00開宴予定ですので、参加可能方はこの掲示板に一報ねがいます。
 

河野談話の補足

 投稿者:玉川  投稿日:2013年11月 5日(火)14時42分22秒
  国家公務員による誘拐事件というものは、我が国ではあまり例がない。しかし、

多くの日本人を拉致した北朝鮮工作員

金大中氏を拉致した金東雲一等書記官、並びにKCIA諸氏

彼らは、皆、国家公務員であった。
しかも、外国での非合法活動である。

「半島の官憲の8割が人さらい民族であった」と、付け加えた方がよい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 

私が見破った従軍慰安婦のウソ

 投稿者:玉川  投稿日:2013年10月 6日(日)11時41分11秒
編集済
 

インターネット上に北朝鮮従軍慰安婦と称する人たちの証言が紹介されていた。
証言している本人の映像を収録したDVDは、アマゾンで販売されている。
ネット上の文章化された証言の内容は、本人の肉声によるものとは多少は異なる箇所があるものの、大筋はDVDと同じである。
また、証言内容の食い違いは、従軍慰安婦には決して珍しいことではない。


12年間の「慰安婦」生活
金大日

私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてのである。

私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。

病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。

来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。

数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。

それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。

その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。

そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。

上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。

上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。

私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。

 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。

私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。

私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。

私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。

ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。

めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。

こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。

こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。

日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。

日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。

はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。

中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。

9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。

私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。

日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。

日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。

(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101204.html

この文章には書かれていないが、DVD(1992年)に収められたキム・デイルさんを含む4人の北朝鮮従軍慰安婦の証言によると、全員が金銭を一切受け取っていないそうである。(ホント?)
それにしても。金を払っていない相手に「この朝鮮ピー(売春婦のこと)」とは、日本兵も相当イカレテいたようである。


従軍慰安婦は当時「挺身隊」と呼ばれていたとあるが、もしも日本人慰安婦までが「挺身隊」と呼ばれていたら、本物の「挺身隊」から苦情が出たに違いない。
1945年3月制作の映画「乙女のいる基地」に女子挺身隊が登場するが、明らかに慰安婦ではない。
http://49497.diarynote.jp/201001090848484664/


ほとんどの北朝鮮従軍慰安婦によると、戦後までに大半の慰安婦が虐殺され、彼らは「幸運な生き残り」だそうである。
最悪の軍隊とあして、「九州6師団」の固有名詞を2回繰り返している。
そして、終戦間際、その第6師団(熊本が編成地)が150人の慰安婦を日本刀で虐殺したそうである。

そこで、第6師団についてWikipediaで調べてみた。
第6師団(日本軍)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC6%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)<o:p></o:p>

 

“ 師団は1943年(昭和18年)初頭にソロモン諸島のブーゲンビル島(Bougainville)南部に進出する。同年11月、タロキナ地区に連合国軍が上陸し飛行場を建設したため、第6師団を主力とした第17軍は飛行場奪還を試みるが、1944年(昭和19年)3月の反攻(第2次タロキナ作戦)を最後に、組織的軍事力を失う。”

中国大陸を離れて、1943年からソロモン諸島に移動し、激戦の末、同島でオーストラリア軍に降伏した第6師団が、どうやって
中国にいる慰安婦たちの首をはねることができたのか?
しかも、第6師団を主力とする第17軍は島民たちに友好的だったので、捕虜となった彼らを島民たちが援助してくれたという記録が残っている。

日本人と朝鮮人は全く異なる。
一部の例外を除き、お互いを同じ人間とみなすことは大きな誤りである。


南は偽証大国
Perjury(偽証) Cases Continue to Rise
http://english.chosun.com/site/data/html_dir/2003/02/13/2003021361023.html

The number shows a significance difference from Japan, where five persons were charged with perjury in 2000, compared to the 1,198 Koreans during the same year.

ナニ人の英語か知らないが、significance は significant の間違いだろう。

2000年における偽証罪による起訴は、日本が5人で、韓国が1198人と桁違いである。

従軍慰安婦問題を知ることは、朝鮮民族を知ることでもある。

http://

 

従軍慰安婦の真実

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 9月23日(月)23時26分26秒
編集済
 

先週の週刊ポストに安乗直(アン・ビョンジク)ソウル大学名誉教授が発見した慰安所従業員の日記に関する記事が掲載されていた。
最前線の慰安婦が奴隷状態であったことを否定するものではないとしながらも、従来から言われていた日本軍による暴力的な強制連行に対し否定的な内容であった。

吉田清治氏のノンフィクションまがいのフィクション「私の戦争犯罪」に描かれているような暴力的な拉致を否定する証拠が次々と浮上する中、是が非でも『強制連行』があったと信じたい人たちの間では、朝鮮人斡旋業者による詐欺的な勧誘とそれを未然に防がなかった官憲(多くが朝鮮人)の怠慢などを含めた『広義の強制連行』という言葉が苦し紛れに使われ始めている。

この論理に従えば、徴兵制度という一種の奴隷制度によって、防人のように狩り出された兵士たちはもとより、 「シンガポール陥落で戦争が終わり、まもなく国に帰れる」と軍上層部に騙され、結局、ビルマやソロモン諸島にまで転戦させられた多くの日本軍『将校たち』も広義の『強制連行』の被害者と言える。

ビルマ奥地のミッチーナで捕虜になった慰安婦の多くが(日本軍が英国から分捕った新天地「シンガポール」での生活を夢見ていたと米軍に証言しているが、同様に日本軍将兵にとっても、シンガポールから先の進軍は約束違反の『強制連行』のようなものであった。

韓国人の働きかけによって、かつて、慰安婦たちが夢見た「シンガポール」従軍慰安婦像が建てられるそうだが、ついでに、その隣の椅子には同じく強制連行の被害者である日本軍兵士の像座らせてほしい。

 

慰安婦に関するサイトを列挙する

「従軍慰安婦の真実」
http://makizushi33.ninja-web.net/


従軍慰安婦の真実by谷山雄二郎(動画)
http://www.youtube.com/watch?v=Tg08W4mbHHc


従軍慰安婦の真実 ― YouTube(動画)
http://www.youtube.com/watch?v=_Lw2imEyYxU


小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」(動画)
http://www.bing.com/videos/search?q=%e5%b0%8f%e9%87%8e%e7%94%b0%e5%af%9b%e9%83%8e+%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%a6%8b%e3%81%9f%e5%be%93%e8%bb%8d%e6%85%b0%e5%ae%89%e5%a9%a6%e3%81%ae%e6%ad%a3%e4%bd%93&view=detail&mid=A422DCF3C06B4D266944A422DCF3C06B4D266944&first=0&FORM=NVPFVR&qpvt=%e5%b0%8f%e9%87%8e%e7%94%b0%e5%af%9b%e9%83%8e+%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%a6%8b%e3%81%9f%e5%be%93%e8%bb%8d%e6%85%b0%e5%ae%89%e5%a9%a6%e3%81%ae%e6%ad%a3%e4%bd%93

97歳男性から安部総理への手紙(動画)
http://ameblo.jp/bellet/entry-11527438387.html

 

ビルマのミッチーナで作られた慰安婦尋問調書(訊問報告書)の日本語訳

http://8531.teacup.com/gan0707/bbs/805

 

従軍慰安婦の不都合な真実

http://www.youtube.com/watch?v=R8PbYpvvgeI

 

http://

 

昔の映画の中の慰安婦

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 9月22日(日)14時58分33秒
編集済
 

人々の戦争の記憶が新しい1960年代の映画には、普通の売春婦としての慰安婦が登場する。中でも一押しの映画は、芸術性から見ても「春婦伝」である。 ビルマのミッチーナで作成された慰安婦尋問調書ともマッチする。

30年以上前の新聞によると、朝鮮人売春婦は戦前の札幌の街にもいて、寒い冬の日、薄いチョゴリ1枚を着て震えながら、道を行く男たちを引き止めようと必死になってすがりついていた。
客が取れないと、建物の中に入れてもらえないのだった。

「春婦伝」1965年 鈴木清順監督の日活映画
原作 田村泰次郎 1952年出版

中国戦線の慰安所が舞台のモノクロ映画。
原作の慰安婦たちは主人公の春美をふくめ全員朝鮮人だったが、映画では1名だけが朝鮮人で、残りは日本語が流暢な日本人という設定に変更している。
鈴木清順監督と副官役の玉川伊佐男氏には、軍隊経験がある。
一種の反戦映画とも言える、この映画の原作者や製作者たちが戦時中の慰安婦を奴隷ではない通常の売春婦として記憶していたことがわかる。
ビルマのミッチーナで作られた慰安婦訊問報告書や小野田寛郎氏が見学した中国の慰安所に関する証言と多くの点で符合する。

【入手法】鈴木清順監督自選DVD-BOX 弐全5巻の中に「春婦伝」である。
この1巻のために3万円も出費するのは少々不が残る。海外では、”A Story of a Prostitute” という題名でDVDが売られている。専用のDVDレコーダーかパソコンで再生できる。

http://www.youtube.com/watch?v=rR23h-NdGIM

http://www.youtube.com/watch?v=0XHKT8hKTpY

http://www.youtube.com/watch?v=YXwGs9ZeJFQ

★続兵隊やくざ
軍隊に批判的な勝新太郎主演のこのコメディ映画はリアリティに欠けるものの、登場する娼館の看板には、ひらがなで「いあんぢょ」と書かれている。
そこにいる女性たち、すなわち、慰安婦たちは、全員が日本人の売春婦として描かれていて、明らかに性奴隷ではない。
慰安婦が主人公ではないので、慰安所のシーンはわずかしかなく、買ってまで見る必要はない。

これらの映画は、日本人の慰安婦が存在し、軍国主義に批判的だった人たちから見ても、慰安婦が売春婦であった証拠と言える。
いずれの映画においても、徴兵制こそが奴隷制度のように見える。

朝鮮戦争の頃、半島に国連軍相手の売春婦がゴロゴロいたことを物語る、実話を基にした映画「38度線」(Field of Honor)
DVDはなく、中古のVHSのみが販売されている。

http://www.youtube.com/watch?v=R3mfU3yNvYc

http://blogs.yahoo.co.jp/kuretakenoyo/36268037.html

この映画に登場する母と娘の売春婦は、オランダ軍兵士にとって衝撃的だったのだろう。
娘を売る親は、日本統治下ならなおさら多かったに違いない。
安乗直(アンビョンジョク)ソウル大学名誉教授が言うように、戦前戦中は慰安婦の供給源は豊富であり、強制連行の必要性はなかったはずである。

http://blog.livedoor.jp/hardthink/archives/51841346.html

21世紀に入った現在も、8人万人の売春婦が海外に出稼ぎに行っている。
そのうち、2~5万人が日本で働いていると言われている。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0617&f=national_0617_016.shtml

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1114&f=national_1114_080.shtml

今日の韓国国内外の売春婦を合わせると、10万人程度なら強制連行の必要性がないのは明らかである。
韓国政府が強制連行を盾に日本を非難するためには、当時の輸送手段や慰安婦の相手をする兵士の数(総勢500万人,⇒1日4~5人で毎週総当たり)などの多少の物理的不可能を無視して、何が何でも慰安婦の数を20万人に膨らませる必要がある。

必死にオーストラリア入国を図る韓国人売春婦
http://www.bing.com/videos/search?q=%e3%82%aa%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%80%80%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%80%80%e5%a3%b2%e6%98%a5%e5%a9%a6%e3%80%80%e5%8b%95%e7%94%bb&view=detail&mid=F16129368AFC99C4A19CF16129368AFC99C4A19C&first=0&FORM=NVPFVR&qpvt=%e3%82%aa%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%80%80%e9%9f%93%e5%9b%bd%e3%80%80%e5%a3%b2%e6%98%a5%e5%a9%a6%e3%80%80%e5%8b%95%e7%94%bb

慰安婦を歴史教科書で扱うのなら、妓生(キーセン)や朝鮮戦争の慰安婦を含む、壮大な『朝鮮半島売春史』の流れの中で教える方が、今日、世界中に売春婦が流出する現象も理解しやすい。

妓生

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%93%E7%94%9F

韓国系市民の熱望によって米グレンデール市に作られた慰安婦像なるものは、年齢的から見てキーセン像と改名すべきである。

新聞広告における日本軍慰安婦の最低年齢は17歳で、ビルマのミッチーナの慰安婦の場合も1名が19歳、募集時の1942年は17歳であることがわかる。

 

韓国軍慰安婦 (「ヘリコプターに乗せられた」などの証言や若すぎる年齢などから、今日、騒いでいる従軍慰安婦と称するお婆さんたちの多くが米軍相手の慰安婦だった可能性が高い。)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6

 

教科書といえば、韓国の教科書フォーラムで、「慰安婦は売春婦」発現をした李栄薫ソウル大学教授が従軍慰安婦支援者に殴る蹴るの暴行を受けるという事件があった。
http://www.youtube.com/watch?v=dmMh5jq5iko

http://blogs.yahoo.co.jp/junsyjunsyjunsy/10447758.html

歴史認識の相違は、お互いの脳の構造の相違である。

http://

 

小野田寛郎氏が目撃した慰安婦

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 9月11日(水)21時50分12秒
編集済
 

「正論」2005年1月号に慰安婦に関する小野田寛郎氏の証言が掲載されていた。

小野田寛郎氏と言えば、戦争が終わったことを知らずに、戦後28年間もフィリピンのルバング島で闘い続けた元日本兵である。
小野田氏は、商社員と兵士の両方の立場で複数の慰安所や慰安婦たちを目撃し、それらの経営者たちと会っている。
中国の二つの異なる地域の慰安所を目撃した小野田氏の証言と、遠く離れたビルマのミッチーナで作られた朝鮮人慰安婦の訊問報告書との間には、多くの点で整合性が見られる


★慰安婦は完全な商行為(米軍尋問報告書では”nothing more than a prostitute”)

★内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」(高収入:ビルマのミッチーナの慰安婦の借金を払った後の手取りは、月々750円ぐらい)

★利用時間も兵士は日中に限られ、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、時間割と料金体系がミッチーナの尋問報告書とよく似ている。

★彼女たちは数人で外出(ミッチーナでも買い物のため外出)

★江西省南昌の「慰安所」の経営者は中国人(すなわち、民間人)

*****************************************************

私が見た従軍慰安婦の正体(本文)
小野田寛郎

 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、 「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。
 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

 ◆ 漢口の「慰安所」を見学

 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。

 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。

難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。

 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。
しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。
汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。

 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。

 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。

 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきた が追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた (現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。

 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。
また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者が「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。
内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

 どこにもいなかった「性的奴隷」

 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねばならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。
その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった
確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいる と言う話はしばしば聞いた。
騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。
「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。
またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。
 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

 当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。

 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。
 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。

 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。

 私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。

「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

 問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

 次に、軍関与の暴論について証言する。
私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。

 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

 南昌には師団司令部があった 「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。

 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

 「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。

 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。

 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれば、何かが得られると狙っているということだ。

 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。

 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。

「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。

 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。

「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。

******************: 「正論」2005年1月号より

動画「私が見た従軍慰安婦の正体」
http://www.youtube.com/watch?v=dnJEBlCS1NQ

正論1月号より
http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/2005/2005-01-16-onoda_ianhunoshoutai.html

http://

 

『慰安婦』 という言葉の謎

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 8月10日(土)16時25分54秒
編集済
 

日本軍専用の売春婦を意味する『慰安婦』という言葉は、韓国独立後も死語とならずに、朝鮮戦争停戦後の1957年を経て、少なくともベトナム戦争が始まる1963年の時点まで使われていた。

これらの事実は、日本統治下の朝鮮半島にあった多くの慰安所が朝鮮人によって経営されていて、『慰安所』という、そのままの名称で、新しい常連客である進駐軍や国連軍に引き継がれていったこと、さらに、これらの中の悪徳業者がベトナムにも進出して多くの女性誘拐(朝鮮南部連続女性誘拐事件やライダイハン等を参照)に関わったことを強く示唆する。

『慰安所』の火事を伝える1957年2月26日付の東亜日報

http://exposethelies.web.fc2.com/image/m19570226.jpg

※ 記事の中の『美軍』とは米軍のこと。

 

2人の慰安婦の自殺を報じる1957年7月21日付東亜日報では、『慰安婦』という言葉がそのまま使われている。

http://exposethelies.web.fc2.com/image/m19570721.jpg

 

韓国軍慰安婦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6

 

さらに、こんな記事もあった。

1963年9月14日 東亜日報

米軍が『リンチ』

慰安婦などに沸いた水(熱湯)

“米軍に「リンチ」をされた慰安婦が『治療費も受け取る道がない』と23日、本社に訴えた。

ソウル厚岩洞264-4 卞さん(32歳=慰安婦)は去る19日晩 米8軍部官府勤務「ペティフ・メイルロ」兵長が2ドル50セントを出し、自身の要求を聞いてくれないと卓上時計と服を持って行くのを奪おうとしたところ、熱湯を背中にかけ一ヶ月の重症を負わせたとのことだ。“

http://exposethelies.web.fc2.com/news1952ame.html

 

もし、『慰安婦』でなく『性奴隷』という名称だったら、忌まわしい日本軍の用語が戦後18年間も使われ続けたであろうか?

慰安婦とは日本独自の言葉で、性奴隷と同義語ではなかったのか?

脳の構造が異なる異人種を理解するのは難しい。

 

http://

 

朝鮮南部連続少女誘拐事件

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 8月10日(土)14時48分13秒
編集済
 

従軍慰安婦神話」のモデルと見られる事件が戦前の朝鮮半島で起きていた。
京城(ソウル)在住の朝鮮人夫婦によって、150名もの少女が誘拐されて満州や中華民国へ売り飛ばされた。
人身売買が多額の利益になることをこの夫婦が知っていたことから、この事件は誘拐事件全体のごく一部と考えられる。

20万人の慰安婦の強制連行なるものが事実ならば、開戦の2年前におきた夫婦の犯罪を日本軍が模倣したものと考えられる。
歴史的に重要な割には一般に知られていない事件である。

開戦のわずか2年前まで誘拐犯を取り締まっていた日本政府が、開戦後、自ら誘拐に手を染めるようになった経緯に関する記録は残っていない。

「日本政府が不都合な書類をすべて焼却した。」が韓国お決まりのセリフである。

WikiPedia より

朝鮮南部連続少女誘拐事件とは、1932年(昭和7年)から1939年(昭和14年)にかけて、日本統治時代の朝鮮の南部地域(慶尚道・全羅道地域)で続発した連続少女誘拐事件である。

【犯人】
犯人は京畿道京城府本町(現大韓民国ソウル特別市中区忠武路)在住の朝鮮人夫妻で、夫は大田刑務所の元看守であった。1932年(昭和7年)に、夫は大田刑務所を退職したが、転職の当てがなかったため、とたんに生活が苦しくなった。そして「金儲けは娘誘拐に限る」と称し、妻と共謀して連続少女誘拐と人身売買を手がけるようになった。

【犯行の手口】
最初の事件は、以下のような手口で行われたという。

慶尚北道大邱府南山町(現大邱広域市中区南山洞)の民家に犯人夫妻が訪れ、「俺は京城でも相当な資産家だ。子守娘を雇うのだが、君の娘はどうだろうか。京城の娘はどうも生意気で・・・」と言葉巧みに親を説得し、前金として10円を支払い、その家の娘(当時18歳)を引き取った。その後、娘を京城ではなく中華民国の天津に連れて行き、1000円で売り飛ばしたという。

その後の7年間、同様の手口で朝鮮半島南部の少女約150人を拐かし、当時は日本人と朝鮮人などの植民地の人間はパスポートなしで渡航できた満州国や中華民国の人身売買市場に連れて行き、約60000円を荒稼ぎしたという。

【事件の発覚】
1939年3月4日、全羅南道光州府(現光州広域市)から連れて来られた少女(当時18歳)は、身の危険を感じて犯人宅から逃亡した。犯人は「自分の姪がいなくなった」と東大門警察署に捜索願を届け出たが、不審に思った署員から問い詰められ、7年間に渉る誘拐・人身売買を自白し、逮捕された。

【事件が与えた影響】
加害者及び被害者が全員朝鮮人だったことから、朝鮮語メディアである東亜日報や朝鮮日報が特集を組むなど、大きく取り上げられた。”

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%97%E9%83%A8%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%B0%91%E5%A5%B3%E8%AA%98%E6%8B%90%E4%BA%8B%E4%BB%B6


女性を拉致して売春をさせる類似した事件は、韓国が出兵したベトナム戦争時にも起きている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%8F%E3%83%B3

戦前の朝鮮南部連続少女誘拐事件から20年の時を経た1960年代、ベトナムで再び韓国人による少女誘拐と強制売春が繰り返された。
なぜなのか?
両者をつなぐものは何なのか?

http://

 

慰安婦尋問調書は実在した!

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 7月29日(月)10時28分12秒
編集済
  テキサス親父(本名Tony Marano氏)と呼ばれる、AT&Tを退職したイタリア系アメリカ人の男性が国立公文書館にコピーを依頼して、1944年に作成された従軍慰安婦尋問調書が実在することを自分の眼で確認している。

http://www.youtube.com/watch?v=ggQaYD37Jm4

http://texas-daddy.com/comfortwomen.html

韓国の正史(=元慰安婦の証言)によると、ビルマの慰安婦が集められた1942年には、日本軍による強制連行がすでに行われていたはずである。
この尋問調書と考え合わせると、斡旋業者の詐欺的勧誘も強制連行と同時進行で行われていたことになる。
最も遠方の戦地であるビルマには、強制連行された慰安婦が誰ひとり行かないで、その代わりに、業者に騙されたとはいえ、自由意志による志願者の慰安婦のみが派遣されたというのは、実に不自然である。
地方の病院の医師不足と同様、人というものは、遠くて不便な所には行きたがらないものである。
 

慰安婦尋問調書の和訳

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 7月29日(月)05時16分40秒
編集済
  20名の慰安婦の尋問調書の和訳がインターネット上にあった。
意味不明の箇所については、他の和訳を参考にして修正してある。

尋問調書によると、彼女らは、性奴隷だったところを救出されたのではなく、日本兵の後を追って移動中に捕虜として捕獲されたのである。
平均的な慰安婦がインド兵と中国兵を恐れていたとあるから、日本軍の奴隷でなかったのは確かである。
これが空爆への恐怖を意味するなら、米英の軍を恐れていたと証言するはずである。

彼女らが戦陣訓に反して「捕虜になったこと」は、朝鮮半島の人たちに対するプロパガンダとして利用できると考えている。
しかし「強制連行」をプロパガンダとして利用できるとは考えていない点に注目すべきである。

また、慰安所のトップは軍人ではなく、京城(ソウル)在住の北村夫婦である。
慰安婦たちは、月々の稼ぎの半分をこの夫婦に返済していた。

【和訳】

アメリカ戦時情報局
心理作戦班
アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
APO689
戦時日本人捕虜尋問報告
第49号 尋問場所:レド捕虜収容所
尋問期間:1944年8月20日~9月10日
報告年月日 1944年10月1日
報告者 T/3 アレックス・ヨリチ
捕虜 朝鮮人慰安婦20名
捕獲日:1944年8月10日
収容所到着日:1944年8月15日

はじめに
この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。

この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を募集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。

「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「追軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この 報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上 輸送したと伝えられている。

募 集
1942年5月初旬、日本の斡旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を募集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵 を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの斡旋業者が用いる誘いのことば は、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地シンガポールにおける新生活という将来性であった。このような偽りの説明 を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2~3百円の前渡金を受け取った。

これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は(売春について)無知で無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡しされた金額に応じて 6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。

これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここ からビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。

パーソナリティー
尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準から いっても白人的基準からいっても、美人ではない。 とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。

生活および労働の環境
ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビル マ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの 暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

優先順位料金等
慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用どの高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および 特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

1.兵 午前10時~午後5時 1.5 円 20~30分
2.下士官 午後5時~午後9時 3 円 30~40分
3.将校 午後9時~午後12時 5 円 30~40分

以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで 引き下げた。

利用日割り当て表
兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。
その日の要員として、通常当該部隊員二名が、隊員の確 認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。
日曜日――第18師団司令部
月曜日――騎兵隊
火曜日――工兵隊
水曜日――休業日、定例健康診断
木曜日――衛生隊
金曜日――山砲兵隊
土曜日――輜重隊
将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その 結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれて いた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。
慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。

報酬および生活状態
「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦 が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りするように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。

日本の軍人に対する反応
慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。 両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰 安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させること ができなかったという理由から自決した。

兵士たちの反応
慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうで ある。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった慰 安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
しばしば兵士たちは、故郷か らの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などが いっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主が、(女性である)自分自身あるいは「現地の若い女性たち」を想定しただけかもしれないと推測した。

軍事情勢に対する反応
慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようで ある。しかし、注目に値する若干の情報がある。

「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかっ た。」
「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵はいたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」

ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩 兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
慰安婦たち の一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうで ある。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。

宣 伝
慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝ビラのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたビラを2、3見たことは あったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのビラ(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がビラのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。

要 望
慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるビラは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の 慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を朝鮮で計画されているビラの投下に利用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。

付録A
以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。

      氏名      年齢   住 所
 1 「Shin Jyun Nimi」 21歳 慶尚南道晋州
 2 「Kak Yonja」    28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
 3 「Pan Yonja」    26歳 慶尚南道晋州
 4 「Chinga Chunto」   21歳 慶尚北道大邱
 5 「Chun Yonja」    27歳 慶尚南道晋州
 6 「Kim Nanju」    25歳 慶尚北道大邱
 7 「Kim Yonja」    19歳 慶尚北道大邱
 8 「Kim Kenja」   25歳 慶尚南道釜山
 9 「Kim Sanni」   21歳 慶尚南道クンボク
10 「Kim Kun Sun」  22歳 慶尚南道大邱
11 「Kim Chongi」    26歳 慶尚南道晋州
12 「Pe Kija」     27歳 慶尚南道晋州
13 「Chun Punyi」   21歳 慶尚南道慶山郡〔以下略〕
14 「Koko Sunyi 」   21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
15 「Yon Nuji」    31歳 平安南道平壌
16 「Opu Ni」     20歳 平安南道平壌
17 「Kin Tonhi」   20歳 京畿道京城
18 「Ha Tonyo」    21歳 京畿道京城
19 「Oki Song」    20歳 慶尚北道大邱
20 「Kim Guptogo」  21歳 全羅南道光州

日本人民間人
 1  キタムラトミコ     38歳 京畿道京城
 2  キタムラエイブン  41歳 京畿道京城
 

慰安婦尋問調書

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 6月26日(水)13時47分12秒
  米軍による1944年に書かれた慰安婦の尋問調書が存在する。

UNITED STATES
OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Attached to U.S. Army Forces
India-Burma Theater
APO 689
Japanese Prisoner of War Interrogation
Report No. 49. Place interrogated: Ledo Stockade
Date Interrogated: Aug. 20 - Sept. 10, 1944
Date of Report: October 1, 1944
By: T/3 Alex Yorichi
Prisoners: 20 Korean Comfort Girls
Date of Capture: August 10, 1944
Date of Arrival: August 15, 1994
at Stockade

PREFACE
This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.
The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.
A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers.

The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.

RECRUITING;
Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.
The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six months to a year depending on the family debt for which they were advanced ...

Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.

PERSONALITY;
The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman." She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers.
She is afraid of Chinese and Indian troops.

LIVING AND WORKING CONDITIONS;
In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.
While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.

PRIOR SYSTEM;
The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas.

According to interrogations the average system was as follows:
1. Soldiers .... 10 AM to 5 PM .... 1.50 yen .... 20 to 30 minutes
2. NCOs ........ 5 PM to 9 PM ..... 3.00 yen .... 30 to 40 minutes
3. Officers .... 9 PM to 12 PM .... 5.00 yen .... 30 to 40 minutes

These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.

SCHEDULES;
The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situations they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying. In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order.

Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.
Sunday ....... 18th Div. Hdqs. Staff
Monday ....... Cavalry
Tuesday ...... Engineers
Wednesday .... Day off and weekly physical exam.
Thursday ..... Medics
Friday ....... Mountain artillery
Saturday ..... Transport

Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.
Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side. Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.

PAY AND LIVING CONDITIONS;
The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract.
This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master".
Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.
In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.
The interrogations further show that the health of these girls was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.

REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;
In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina and Maj. Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitué of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.

SOLDIERS REACTIONS;
The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.
All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters."
The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminine and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".

MILITARY SITUATION;
"In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.
"Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."
Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to storm the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.
It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.

RETREAT AND CAPTURE;
The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of three houses (Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats. They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three-hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any mea ns of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockade where the interrogation which form the basis of this report took place.

REQUESTS
None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast."
They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings planned for Korea.

「中国軍とインド軍を恐れていた」と書かれているので、少なくとも日本軍の奴隷でなっかったことは明らか。
借金によって慰安所のマスターに拘束されいて、毎月750円ずつ返済していたことがわかる。
この尋問調書を書いたのは日系人兵士である。
他の人種の兵士なら、”A comfort girl is nothing more than a sex slave " と書いたはずだという意見がある。
もしそうならば、「歴史認識は遺伝子の産物」と言える。
 

剣闘士試合の大義名分

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 6月25日(火)19時11分48秒
  見世物が主な目的の剣闘士試合であっても相手が罪人の場合、国家の安全のための「重罪人の処刑」という大義名分が成り立つ。
しかし、太平洋戦争には侵略戦争である以外、世界が認める大義名分など微塵たりとも存在しない。

兵士の中にも志願兵がいるように、剣闘士の中にも自らの意思で剣闘士になった自由人もいて、その中には騎士階級や元老院階級、さらには皇帝1名も含まれる。

旧大日本帝国の徴兵制というものが、太平洋戦争という、古代ローマの剣闘士試合ほどの正義さえも存在しない不毛な殺し合いを国民に強制する、時代遅れで野蛮な奴隷制度であったことは明白である。

にもかかわらず、この徴兵制度を一切非難しないで、慰安婦と慰安所の経営者との個人契約(証拠書類はある)に基づく慰安婦制度だけを目の敵にして、強制連行(証拠書類はない)を認めない日本政府を非難する人たちの頭の構造はどうなっているのだろうか?

左翼の方々や韓国政府は、どうして徴兵制度を非難しないのだろうか?
 

剣闘士(グラディエーター)

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 6月21日(金)19時04分15秒
  古代ローマ人は、コロッセオと呼ばれる円形闘技場で、剣闘士(グラディエーター)と呼ばれる奴隷や囚人たちを戦わせた。
命を賭けた彼らの戦いは、血に飢えた多くの人々の娯楽となった。
実際の戦闘場面を模すために、戦争捕虜がそれぞれの民族風の武装をした闘士に扮した。
また、人口の池に16隻もの軍船を浮かべた模擬海戦が行われた。
剣闘士養成所の教官が新兵の訓練をしたり、あるいは、ポエニ戦争のように剣闘士が戦争に駆り出されることもあった。

さて、剣闘士を闘技場で戦わせること、あるいは、実際の戦場で戦わせること。
これらのうち、どちらがより人道的か?
どちらが奴隷扱いで、どちらが自由人扱いなのか?

国内外のメディア関係者や政治家の中には、軍御用達売春婦である、いわゆる、慰安婦は性奴隷であると非難する人が大勢いる。
しかし、一般市民を強制的に戦場に送る旧大日本帝国の徴兵制を、剣闘士と同様の残酷な奴隷制度であると非難する人は、ほとんど皆無である。
私を除く世間の人々の人権感覚はどうなっているのか?

 

没収されたヤドカリ

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 5月24日(金)16時51分36秒
  没収されたヤドカリ

ベトナムのリゾート地ダナンへ行った。
波打ち際で小さなヤドカリを拾って、ペットボトルに入れた。
子供は大喜びで、何度もボトルの底をのぞきこんでいた。

ところが、ホーチミンへの帰り道のダナン空港での手荷物検査で取り上げられてしまった。
行きのホーチミン空港では水の入ったペットボトルも、X線装置に通すだけでOKだったのにもかかわらず。
特別な装置がない時代、日本の空港では臭いを嗅ぐなどして安全性を確認していた。
それにしても、生きたヤドリカリが歩き回っている水のどこが危険なのか?
有無を言わさず一律に没収しなくてもゴマ油を一滴垂らすだけで安全性は証明できる。
あるいは、ヤドカリを残して水を捨てさせるという選択枝もあったはずだ。

天皇を神として崇拝する人間と、生きたヤドリカリが入っている液体を可燃物と考える人間の知能には大差がない。
独裁国家を支えるのは、いつの時代も科学的な思考力に欠ける人間集団である。
独裁国家とは、独裁者と政権を支持する愚民という時代遅れの霊長類たちが住むサファリパークのようなものである。

生き物がクズかごに捨てられたことでショックを受けた子供に「どうして」と聞かれた。
「世の中には頭の悪い人たちが大勢いる」としか答えようがなかった。
愚かな役人たちとその背景にある独裁体制を支持する人たちをバカだと思う両親からは、同じように彼らをバカだと思う子供が生まれる。
我が子が大人になって独裁国家へ旅行したとき、民主主義が遺伝することを自ら実感することであろう。

少子化対策とはいえ、外国人を移民として安易に受け入れることは、日本の将来の民主主義を危うくする可能性がある。

 

理系重視の教育改革

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 4月27日(土)18時25分22秒
  自民党の教育再生実行本部が文系を含むすべての大学入試で理数科目を必須とすることを提言する。
今日の我々の生活の大部分が科学技術に支えられているのはまぎれもない事実である。
ハイテク産業が関わる経済は勿論だが、DNA鑑定の登場で法学部も科学知識が必要とされる。

最近、首相や閣僚の靖国参拝が中国や韓国からの批判の的となっている。
このような状況下において、天皇を神として崇める非科学的な思考回路を持った軍国主義者たちがあの戦争を起こしたという歴史認識に立ち、理数重視の教育改革を通じて科学に疎い人々が存在しない社会を目指すことは正しい選択と言える。
日本政府を非難する中国や韓国も、理数が苦手な日本人留学生を締め出すなどして、世界平和の維持に協力すべきである。

プラトンのアカデメイアの門には「幾何学を知らざる者、くぐるべからず」と書かれた額が掲げられていた。
哲学者になるための必須条件だった「幾何学」は、当時「数学」と同義語であった。
プラトンは哲人政治を理想としたが、万人が参加する今日の民主主義が衆愚政治に陥らないためには、万人が数学を理解する必要がある。

数学と民主主義への理解との間には関連がある。
ナチスに反対したアルメニア系ドイツ人の数学者エミール・アルティンは、素人向けに「ガロア理論入門」を書いているが、このフランスの天才数学者ガロアもまた共和制樹立のために王政と闘った革命家である。
明日から連休が始まるので、ベトナムへ出かける。
共産主義を快く思わないベトナム人にも理系の大卒者が多い。
ソ連の反体制派科学者サハロフ博士のミニチュア版と言えよう。

教育や受験制度が未来の国民を選択すると言っても過言ではないだろう。
自民党教育再生実行本部の今回の決定は、日本に平和と繁栄をもたらす「理系人間」量産への一歩として期待できる。
30世紀までに私のような学習能力の低い人間が淘汰され、国民全員がクォークやヒッグス粒子を理解する日が来ることを願っている。



 

e +πとeπ、超越数はどっち?

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 4月25日(木)11時17分5秒
編集済
  ここで、頭の体操。

【問題】自然対数の底eと円周率πは共に超越数(整数係数の代数方程式の根とならない数)である。
e +πとeπのうち、少なくとも一方は超越数であることを証明せよ。

※ヒント:両者が代数的な数であると仮定して矛盾を引き出す。
多分、両方とも超越数であるが、それを証明するのは非常に困難(証明できる人は地球上に一人もいない)なので、『少なくとも一方』とする。
 

πの超越性とテストで測れない能力

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 4月23日(火)18時48分17秒
  円周率πや自然対数の底eなどは、整数係数の代数方程式の解にはならない。
このような数は、無理数の中でも超越数と呼ばれている。
複素数全体を見渡せば、数学の対象となる数字や記号で個別に表現できる数は例外中の例外で、有限個の記号ではどうにも表現のしようのない数が大多数を占める。
このことは、19世紀にカントールによって証明されている。
超越数はごくありふれた数であるが、個々の数が超越数であることを証明することは非常にやっかいである。
e+πが超越数であることは察しがつくが、実際には有理数であるか無理数であるかさえもわかっていない。

先週の週末、eやπの超越性の証明を理解することに再挑戦した。
前回は2年前で、「部分積分」とやらが解らなくて挫折している。
高校3年の最初の定期試験で学年のビリから2番をマークした頃、微積分の本を読んでいた。
この本で「部分積分」が触れられていた。
高校数学に毛が生えた程度の内容で決して難しくなかった。
今回は、あの10代のころの「部分積分」の記憶を頼りに証明を完全に理解することができた。

円周率を100桁暗記させるのは「ツメコミ教育」だが、円周率が超越数であることを理解させるのは理解力が要求されるが、暗記ではないので「ツメコミ」ではない。
5科目の合計点がビリから2番で、数学が平均点以下の高校生が趣味によって得たものは、テストの点数で測れない能力として生涯残った。
私の体験は、テストで測れない能力を考えるうえで参考になる話だと思う。

 

群論

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 4月23日(火)15時27分21秒
  海外のサイトにカナダの学生が投稿した群論の問題があった。
この問題には、学生や数学教師などの他の回答者からの回答がなかった。
そこで、浪人時代に独学で学んだ知識をもとに、50代の親父が挑戦した。

【問題】次の命題を証明せよ。
“すべての真の部分群が可換である有限群は単純ではない。”

【私の解答】  H≠{e} を有限群Gの極大部分群、かつ、Gの真の部分群すべてが可換群であると仮定する。
a∈G をHに属さない任意の元、かつ、K= a^(-1) H a とする。

(1) すべての a∈G について、H = K= a^(-1) H なら、
HはGの正規部分群である …..①

(2) H≠K となるKが存在するとき、H⊂HK かつ H≠HK
かつ、HはGの極大部分群なので, HK = G

(i) H∩K={ e }なら, G=HK は可換群である。
(H∩K={ e }のとき, HK は “HとKの直積”と呼ばれる。可換群は巡回群の直積なので、 2個の可換群H, Kの直積であるHKも可換である。)
Gが可換群なら、すべてのa∈Gについて、aH=Ha
よって、Hは正規部分群である ……②

(ii) H∩K≠{ e }のとき
部分群HとK は可換群なので、すべての x∈H∩K とすべての y∈H∪K について、 xy = yx ……③

また、G = HK = { X1 X2…… Xn : Xi∈H∪K }
③より 、
すべての a = (X1 X2…..Xn)∈HK=G 、すべての b∈H∩K について、
ab = (X1 X2…..Xn) b = {X1 X2…..X(n-1)} b Xn =
………= X1 b (X2…..Xn) = b(X1 X2…..Xn) = ba
よって、 すべての a∈KH=G について、 a^(-1) (H∩K) a = H∩K
かつ H∩K≠{ e }により、 H∩KはGの真の正規部分群である …… ④

①,②,④より、群Gは単純ではない。 (証明終)

【解説】 0以外の実数全体の集合R-{0}の元の間で掛け算だけを行うと、すべての積、単位元1、そして、すべての元の逆元(逆数)が集合R-{0}に含まれる。
このような集合を群という。
さらに、R-{0}の部分集合である正の実数をR(+)とすると、R(+)も群となっている。
このように、群である部分集合を部分群という。
群Gの部分群Hの個々の元に、左右からa∈Gをかけた集合をaH、あるいはHa と表し、それぞれ左剰余類、右剰余類という。
前述のR(+)の場合、1×R(+) = R(+)自身と (-1)×R(+) = {x∈R : x<0}の2個の左剰余類がある。 (右剰余類も同様。また、{1、-1}も乗法について群であることに注目。)
R-{0}におけるR(+)のように、個々の元に対する左右の剰余類が一致する群を正規部分群という。
群GがG自身と{e}以外に正規部分群を持たないとき、Gは単純であるという。
{1,-1}のように有限個(この場合は2個)の元からなる群を有限群という。
交換法則 xy=yx が成り立つ群を可換群という。
すべての元が単一の元 a のべきa^n (nは整数)で表される群を巡回群という。

※答えを得るのに2日間を要したが、頭の体操になった。
 

ボストン爆弾テロ

 投稿者:玉川  投稿日:2013年 4月22日(月)15時29分35秒
  【問題】ここに2人1組の兄弟6組からなる12人のイスラム教徒がいると仮定する。
その中の2名にアラーが聖戦を命じたとする。
その2名がたまたま兄弟である確率を求めよ。

【答え】12人から2名を選ぶ場合の数....12×11/2 = 66
その中の兄弟の組は....6
2名が兄弟である確率は.....6 / 66 = 1 / 11

イスラム教徒の一つコミュニティーを1ダースと仮定したときの数字である。
実際のコミュニティーが大きいと仮定すると、テロリストの組み合わせも増える。
テロに遺伝子が関与していないと仮定すると、今回の事件は、これから起こる兄弟以外のペアーによる数十~数百件のテロの予兆にしか過ぎないことになる。
デンマークのクリスチャンセンが言うように、犯罪に遺伝子が絡んでいると考える方が納得できる。
万民が神によって平等に造られていると信じるキリスト教徒は、邪悪な宗教や生い立ちが原因と考えたいところであろう。
テレビに登場する人たちは、異口同音に兄弟が置かれた環境を論じている。
しかし、母親が1年前に万引きで捕まったのも偶然なのか?

 

レンタル掲示板
/17